第12回:神志那弘志氏(スタジオ・ライブ)のアニメ「履歴書」

中学生の時に「宇宙戦艦ヤマト」、高校生の時に「機動戦士ガンダム」で過ごした私は、ご多分に漏れず第2次アニメブーム世代です。
アニメーターを目指したきっかけは、仲の良い同級生のお兄さん。そのお兄さんの描くヤマトが秀逸で、特に教科書の端に描いたパラパラ漫画は、私が最初に「動く絵」を意識した作品(と言っても過言ではない素晴らしいモノ)でした。何度もその同級生の家に遊びに行っては、絵やパラパラ漫画を見せてもらい感動したものです。
その同級生のお兄さんは、やがて高校を卒業すると「アニメーター」として就職します。その尊敬するお兄さんの名は、わたなべひろし。のちに「魔法のプリンセス ミンキーモモ」で有名になります。

わたなべ先輩が就職した会社は「スタジオ・ライブ」と言います。社長は故・芦田豊雄。宇宙戦艦ヤマトが好きならその名を知らない人はいない、超有名アニメクリエイターです。高校3年になった私は、わたなべ先輩を頼ってスケッチブックを片手にスタジオ・ライブの門を叩きます。1981年の夏のことです。

当時の芦田社長の姿を思い出して描きました

翌年の春、スタジオ・ライブに入社します。最初の仕事は「Dr.スランプ アラレちゃん」の動画。仕事が楽しくて仕方ない私は、寝る間を惜しんで机に向かいます。お金の心配は全く不要でした。使う暇がないほど、机にかじり付いていたからです。
やがて高熱を出して倒れます。人生初の入院。様々な検査をしましたが原因が見つからず、診断は「自律神経失調症」。結局、お金を使うハメになります。
そういえば入院時にこんなことがありました。看護師に職業を聞かれた私は「テレビのアラレちゃんを描いています」と答えました。すると、その看護師は驚いた顔で「え! あの少年ジャンプの!?」「え? ひょっとして鳥山明?」。私は全力で否定しました。
当時、アニメーターという職業名は珍しく、アニメーションすら理解してもらえない。「テレビ漫画」と言ってようやく通じる時代で、その看護師さんは漫画もテレビも同じ人が描いていると勘違いをしていました。
今でこそ、アニメーションは世界に誇る日本の文化。でも当時はそんな状況だったのです。

あれから36年。アニメーション業界を取り巻く環境はずいぶんと変わりました。私も原画、作画監督、キャラクターデザイン、監督と様々なセクションを経験して来ました。そしてスタジオ・ライブの社長として跡を継ぎ、現在はアニメーターを続けながら後進を育てることに力を入れています。
振り返ってみれば、多くのアニメーター志望の若者を見てきました。今も残って続けている者もいれば、消えていった者もいます。その経験から感じることは、今も昔もこの仕事に必要なのは【情熱】だと言うことです。その熱い情熱が冷めないうちに、若い子をアニメーターとして形作ってあげなければならない。それが私の使命だと思っています。

最後に、若い皆さんへメッセージです。
「やりたい事があったら悩まずに、まずは挑戦してみるべきです。若い時の自分の頭で考える事なんて、たかが知れています。経験の無い若い頭を補えるのは行動のみです」

左は創立35周年記念で作った図書カード。芦田はアニメーターをモグラに例えていました。右は創立40周年で作った記念本です。我が社の歴史が書かれています。

神志那弘志(スタジオ・ライブ