第9回:工藤秀子氏(スタジオキャッツ)のアニメ「履歴書」《その2》

【ハンドトレーサーとして】
東京ムービーに入社して、アニメの仕事が始まりました。

まずはトレスの練習です。ペンにインクをつけて、透明のセル(アセテートのシート)に絵を描くのですが、初めは単なる円を描くのも難しかったです。実は、子ども時代からアイススケート教室に通っていたので「足で円を描く」練習はしていました。フィギュアスケートでは身体をどういう風に回せば綺麗な円ができるかを知っていたので、同じようにペンを滑らせて円を描く練習をしました。たぶん他の人より得意だったと思います。

毎月、トレスのテストがありました。当時、東京ムービーでは「オバケのQ太郎」という作品を課題で使っていました。10枚のセルに、1枚目の見本と同じ線を描いて、その線が重なっていることをテストするのですが、私は円が得意だったので、ほぼ10枚が1本の線になっていました。誰にも真似できない技術でした。

「パーマン」では、キャラの目の周りが二重線になっているので、なかなか綺麗にトレスできる人はいません。私は自分の仕事に自信をつけていました。絵の具は11色だけの白黒作品でした。

虫プロでカラーのアニメ制作が始まると、業界全体が一気にカラー作品へと変わっていきました。

東京ムービーでは「巨人の星」がスタートしました。同時期にトレスマシーン(セルコピー機)が導入され、大量生産時代を迎えます。作品数が増えると、社員ではなく、契約社員が入って来るようになりました。私たちは最後の現場社員となったのです。初めの頃はまだハンドトレス作品が多かったのですが、彩色は80色くらいに増えていました。

出来高制が始まると、契約社員は1枚でも多く描くことに必死になるので、そのあおりを社員が受けることになりました。絵柄の大変な仕事は枚数をこなすのが難しいので、契約社員は取らないで、社員が取るのを待っていました。なので、大変な所は社員がやって、簡単な所は契約社員がやるという状況でした。でも「アタックNo.1」では、丸いボールはほとんどの人が不得意なので、それだけは私に回って来ました。

その後、私は結婚し、子どもを産むことになり、産休を取りました。
戻って来た時に、会社から解雇を言い渡されました。
当時、結婚したらほとんどの女性は会社を辞めていましたし、子どもができて続ける人は居ませんでした。会社も戻って来るとは思っていなかったようでした。

クビの理由は「枚数ができない」というものでした。
本音は、労働組合活動をしていたので辞めてもらいたかったのだと思います。当然、首切り反対運動を起こして、結局、会社がクビを撤回しました。強くなくては生きていけない時代でした。

枚数ができないのが理由だったので、育児のために他の人より作業時間が短くても、必死で枚数を増やすように頑張りました。結果、誰よりも枚数ができるようになりました。
でも、時代は更に動いて、ほとんどの作品でトレスマシーンを使うようになりました。作品数もどんどん増えていくので、契約社員も外注会社も増えてきました。人数が増えると、覚えるのに時間が掛かるハンドトレスは、ベテランが足りない状況になってきました。

当時、トレスマシーンはスタンダードセルしかコピーできなかったので、大判と言われる大きいサイズはハンドトレスをする必要があり、社員は大判セルをやることになりました。
一方、アニメ作品の人気が高くなり、商品化のためのセル画はハンドトレスで作業するので、版権作品は社員の仕事として残りました。

結局10年間、ハンドトレーサーとして仕事をすることになりました。

【宮崎作品との関わり】
東京ムービーは当時、Aプロダクション(Aプロ)という東映動画から独立してできた技術力の高い会社と一緒に作品作りを進めていました。宮崎駿さんらの作品「パンダコパンダ」では、Aプロで作画までやり、仕上げは東京ムービーで作業していました。検査はAプロがやっていたので、トレスの評価もAプロがしていました。当時はトレスマシーンが主流になって来ていたので、ハンドトレスをできる人は少なかったのですが、結局ハンドトレーサーとして認められたのは私だけになりました。

ほとんどのトレスがトレスマシーンで行われるようになって来た頃、私は(版権もののトレスを除き)色指定という職種に変わりました。「ルパン三世」がヒットして、東京ムービー社内で2作目を始めていた頃、色指定が不足していたためです。しかし、その後も、ハンドトレーサーとして宮崎作品に関わることになるのです!

東京ムービーは、技術部門の強化のために、関連会社としてテレコムアニメーションという会社を作り、当時の大先輩である大塚康夫さんを講師として新人育成を始めました。
そのスタッフを使い、宮崎さん監督の劇場作品「ルパン三世 カリオストロの城」がスタートしたのです。劇場作品は東京ムービーとしては初めてなので、東映動画で劇場作品を経験したAプロのベテランを中心にスタートしました。Aプロの仕上げ検査担当の先輩である山浦浩子さん(結婚して名字は近藤になっていましたが、みんな山浦さんと呼んでいました)は色指定として参加していました。山浦さんから手伝って欲しいと頼まれて、テレコムアニメーションにお手伝いに行きました。そして、ハンドトレスの部分は、ほとんど私が作業することになってしまいました。

しかし、そこで初めて、東京ムービー以外の仕事の仕方を勉強することができました。
劇場作品では、まずカラーチャートを作るところから始めることや、背景の色に合わせて色味を変えて行くこと、今まで漫画という感覚で「髪の毛は黒」「肌は肌色」「水は水色」「コップは水色」という色の作り方をしていましたが、背景に合わせて、もっとリアルな色の使い方をするということを学びました。最初に任されたトレスでは、地下室に流れ込む水は黒色でした。水は水色という概念がありましたが、全く違う色で表現されていることにびっくりしました。

まさにアニメの表現を変えたのが宮崎アニメだと思います。
宮崎さんが色指定の山浦さんの所に来て「この場面はヨーロッパの草原の光の中を歩いている感じです。柔らかい風が吹き……」とイメージを伝え、色を選ぶのも宮崎さんがこの辺の色が良いと説明していました。イメージを統一してスタッフ間の意思疎通をしていました。また、背景を先に描いて、それに色を合わせるというやり方も斬新でした。いままでの仕事では、背景もセル仕上げも同時進行なので、背景に色を合わせるということはできなかったのです。また宮崎さんは、背景でも「こんなやり方はどうか?」など実験的に新しい手法を試していました。

さまざまな新鮮な経験ができて、非常に勉強になった仕事でした。
その後、会社を辞めてスタジオキャッツとして独立してからも、トレーサーとして関わることになりました。

次回は、仕上げ会社の設立、マッドハウスとの出会い、海外との関わりについて、お話しします。

工藤秀子(スタジオキャッツ)