第5回:遊佐かずしげ氏(メビウス・トーン)のアニメ「履歴書」《その3》

前回は、竜の子プロダクションの養成所に入るところまでをお話ししました。

1978年、中央線/西武国分寺線・国分寺駅近くに竜の子プロダクションの養成所として設けられた「竜の子アニメ技術研究所」には、アニメーターを夢見て日本中から若者たちが集まりました。いわゆる1期生は私を含めて10名ほどでしたが、翌年から毎年新人を募集し、常に50人規模の組織となり、その後10年ほどアニメーション業界に多くの人材を輩出することになります。

私は6ヶ月間の養成期間のとても贅沢な指導環境に恵まれ、半年後に出来高制契約(ノルマ制)に切り替えられ、放送本番用の動画作業を通して自信をつけていきました。そして、わずか1年後に原画に抜擢されたのです。新人原画マンとして「ゼンダマン」(1979)、「森の陽気な小人たち ベルフィーとリルビット」(1980)、「とんでも戦士ムテキング」(1980)といった作品に出会えたことは実にラッキーでした。なぜなら動物の動きや自然現象、人体アクションなどアニメーションの基本をじっくり学べたからです。ご指導いただいた野辺駿夫さんと林政行さん(りんたろう氏の実の弟)には原画と演出の重要性、「ガッチャマン」の宮本貞雄さんにはハンナ・バーベラ(※1)など海外のアニメーションの魅力も教えていただき、広い視野を与えていただきました。もうひとつ幸運だったことは、同時期にNHK初のTVアニメ「未来少年コナン」(1978)がスタートしたことです。毎週火曜日夜19時30分には養成所の1階のテレビに釘付けになったものです。動きが素晴らしかったのです。宮崎駿、大塚康生、もりやすじ、高畑勲といった名だたる大先輩の名前を知った頃でもあり、竜の子にいながらにして他社の配布冊子「未来少年コナンのレイアウト集」をお手本として使っていたことを覚えています。

【裏切り者と呼ばれて・・・】
ところで、私はこの養成所をわずか3年で去ることになります。ヘッドハントされたのです。
入社後3年も過ぎると個性や成長幅に差が出始めてきます。いわゆる成長株との評価をいただいていた頃、私は外部のベテランアニメーターから引き抜きに合うことになります。将来を考えた時、気になるハンナ・バーベラや門前払いの東京ムービー、宮崎駿アニメの魅力が渦巻いていた時代で、外界へ飛び出すなら今かもしれない!と思ったのでしょう。自責の念から1ヶ月分の給料を返納し「竜の子アニメ技術研究所」を去りました。養成所の趣旨から考えれば・・・「裏切り者」という負い目を感じながらの辛い判断でした。私を育てくれた「竜の子プロダクション」はその後「タツノコプロダクション」に代わりましたが今でも感謝しています。

さて、フリーになることは想像以上に刺激的で、その判断が間違いでなかったことはすぐに分かりました。途中キティフィルムへ移籍し「みゆき」でつまずいたことを除けば、「うる星やつら」の原画ローテーションに入り押井守氏との仕事を皮切りに、グループ・タックの「まんが日本昔ばなし」「タッチ」、東京ムービー(テレコム)の「タイニー・トゥーン」、日本アニメーションの「ピーターパン」「トッポ・ジージョ」など様々な個性的作品と出会い、とにかく作画としての経験を積みました。いわゆるアニメブーム到来で「月刊アニメージュ」など専門誌が多く発刊され、「アニメ」という職業が社会から注目を浴び、業界の友人も増え、仕事が楽しくてたまらない華やいだ時代でもありました。あの有名な庵野監督とはスタジオ・ライブの友人つながりで飲み仲間でもあったんですよ。彼はきっと忘れているでしょうね。30年も前の話ですから(笑)。

【アメリカが教えてくれたもの】
今となってはこれも思い出の1つですが、ディズニーに行かれた宮本貞雄さんの影響もあり、28歳の時にアメリカ横断1人旅を2度断行し、初めてのNY、シカゴ、ロサンゼルス・・・と、人間として、アニメーターとして、研鑽を積むことになります。そして憧れのあのハンナ・バーベラ・スタジオへも・・・。

【挫折が独立につながる!】
世間が狂乱のバブル時代に突入した33歳頃のことですが、御多分に洩れず、某プロデューサーを信じたことで数百万円の未収被害に遭うこととなります。詳しくは書けませんが、父親に無心してしまったことが一生の悔悟の念となります。養護施設から引き取り、誰よりも息子を誇りに思ってくれた父に本当に申し訳ないことをしてしまいました。晩年、孫の顔を見せてあげられたことがせめてもの恩返しになったのではと思います。バブル崩壊を身を以て知った遅い青春でした。
やがて、スケジュールのひっ迫や労働条件、権利問題などの矛盾に疑問を持ち、いわゆる日本の商業アニメーションの受注に限界を感じ始めていました。充足感を得られなかったのです。映像のデジタル化もささやかれていた頃でもあり、そこでたった10年余りでTVシリーズアニメの原画受注に終止符を打ち、短編アニメーション作家の道に進みました。1991年の個人事務所「メビウス・トーン」の設立を期に、今では誰もが知っているアップル社の Mac(LC520)を早い時期に購入し独学でデジタルアニメーションを、ウインドウズマシンを購入し3DCGを、PV受注をきっかけに役者を使った実写映像を、そして芝居を学び、映像演出家として再スタートを切りました。1994年には講談社の月刊シリーズビデオ「名作童話館」の監督兼映像を1年間任され、続いてNHKからお声がかかり、「おかあさんといっしょ」「いないいないばぁ」「にほんごであそぼ」「ピタゴラスイッチ」などのスタッフとして参加することになります。肩書きも「2D&3Dアニメーション作家」となり、短編映像をアイデアから完パケ(納品状態)まで1人でこなすオールラウンダーアニメーション監督として評価していただけたのです。
早い時期のMacへの投資は見事に功を奏しました。現在は「おじゃる丸」のOPやTVコマーシャル、NHK「みんなのうた」などが私のフィールドとなっています。

 《NHK みんなのうた》「エコー ~こだまする歌~」作画

人生はわからないものですね。
40代に入ると専門学校や小中学校、各種団体から講演の依頼が来るようになりました。練馬区教育委員会からの要請で小中学校でのアニメーション授業体験を目的とする「特別講師」も9年目を迎えます。福岡のCG専門学校では3Dモーションを学ぶ学生のために「遊佐ゼミ」を開設して9年、たくさんの教え子がプロとして巣立っていきました。のちに東京工芸大学芸術学部アニメーション学科から熱心な依頼をいただき、相当悩んだ末にですが非常勤講師、教授として4年間勤めました。同大学で「セロ弾きのゴーシュ」の才田俊次先生と共に教壇に立たせていただいたことは私の一生の財産となりました。

かつて東京ムービーから「帰った!帰った!」と言われ傷ついた高校生は、やがてベテランの域に差し掛かった頃、奇しくも東京ムービー新社の某プロデューサーと中野の居酒屋で会食した際に、あの「門前払い」のエピソードを話しました。「遊佐さんを門前払いしたヤツは誰だ!!」と憤っておられましたが、今となっては懐かしい笑い話です。
スタジオぴえろの創業者・布川ゆうじさんに「ニャンコ先生」を描いていただいてから、その後の宮本貞雄さん、杉井ギサブローさん、多くの先輩方や仲間たちとの出会いがあり、そのご縁を大切にしてきたことで今の自分があると思います。

とうとう私も今年4月にキャリア40年目を迎えました。
現在、一般社団法人 練馬アニメーションの代表として、また教育者として、現役アニメーション監督として、今後も後進の指導に努めながら、さらなる新しい出会いを楽しみに精進し続けたいと思います。

今月9月22日の「タッチ、背番号のないエース」の上映&トークショーでは杉井ギサブロー監督と一緒に作画監督として登壇を予定しています。光栄なことです。また近く、人材育成を目的とした活動を本格的に再スタートします。


練馬区の小学校での訪問授業

振り返れば、とても書ききれないほどの時間を「私の履歴書」3部作で収めてみましたが、いかがでしたか? アニメーターを目指すみなさん、夢を抱いている若い方を応援しています。この駄文が一助になればとても嬉しいことです。
ありがとうございました。

※1=MGMで『トムとジェリー』を制作したウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラが1957年に設立した、アメリカのアニメーション制作会社。代表作「チキチキマシン猛レース」「トムとジェリー」など。

遊佐かずしげ(メビウス・トーン)

ゆさかずしげ
東京生まれ・タツノコプロ出身 アニメーター兼監督
元:東京工芸大学芸術学部アニメーション学科教授

主な参加作品:
「うる星やつら」「まんが日本昔ばなし」「タッチ」「楽しいムーミン一家」「にほんごであそば」「ピタゴラスイッチ」「みんなのうた」「ペコロスの母に会いに行く」「陽炎の辻」、テレビCM「レノア柔軟剤」「Z会」など多くの短編作品を提供。今年でプロ40周年。

☆次回は、望月重孝さん(アスラフィルム)です。