第2回:廣川二三男氏(三晃プロダクション)のアニメ「履歴書」

新潟の片田舎から上京し、大泉学園に住み始めて2年後の1976年。アニメ撮影会社 スタジオタンク・ファイブ(現 三晃プロダクション)に入社し、私のアニメーション生活が始まりました。

当時は、工事現場にあるようないわゆるバラック小屋の中に、線画台とカメラが3台設置されていました。線画台も、16mmのカメラを見るのも初めてで、先輩の助手について教えて貰うのですが、セルやBG、シート、絞り、フォーカスなどアニメ用語・撮影用語がまったく分からず、ゼロからのスタートでした。

線画台

フィルムは現像しないと出来上がりが分からないので、最初は怖かったけど楽しみでもありました。ある朝、現像所が回収に来るまで急いで撮影を続け「終わった!」と喜んだものの、マガジン(フィルムのケース)を外したらフィルムが無くなっていたり、よく怒られていました。フィルムの残尺を確認しないで撮っていると、無くなってることに気付かないんです。慣れると音で分かるんですけどね(笑)。

当時のスタジオは東大泉にあり、「一発貫太くん」や「まんが日本絵巻」などをグロスで受けて撮影していました。スタジオの裏は牧場で、のんびりしていました。臭かったけど。

1980年、高松町(光が丘団地あたり)に平屋の一軒家を借り、移転。線画台も5台に増えました。社名変更もこの頃だったような……(実はこの間1年程、タンクファイブを辞めています。つまり出戻りです。辞めていた1年程の間に移転と社名変更があったので)。

カット待ちの間、スタジオの屋根に上がって日光浴をしたり、マージャンもやってましたね。次のカットが入ってくると、みんなササッと仕事が早いンです、マージャンの続きを早くやりたいがためにね。

ここでの作品は「まんがはじめて物語」「ゼンダマン」「オタスケマン」「ヤットデタマン」「おはよう!スパンク」などをグロスで受けつつ、シリーズで「宇宙大帝ゴッドシグマ」「百獣王ゴライオン」「戦国魔人ゴーショーグン」「銀河旋風ブライガー」「特装騎兵ドルバック」「超獣機神ダンクーガ」「マシンロボ」などの戦隊・ロボット・メカもの、そして「若草の四姉妹」「魔法のプリンセス ミンキーモモ」「まんがどうして物語」「ハイスクール!奇面組」など。また、この頃は東映テレビの実写ドラマのエンドロールやサブタイ撮影・マヨネーズ・麦茶のCMなども手掛けていました。

当時カメラが故障すると修理に出すのですが、職人の作業を見ているとこれがまた面白い。自称機械オタクな私はハマってしまい、教えてもらいながら自分で直したりもしました。後半、カメラ屋に持ち込まず、ある程度は自分で直していました。もちろん線画台の板の張替えや部品の交換・整備なども行いました。

1986年、大泉学園町に木造2階建てスタジオを建て移転、線画台も9台に。作品も増え「ミスター味っ子」「鉄拳チンミ」「レイナ剣狼伝説」「アイドル伝説えり子」「天空戦記シュラト」「たいむとらぶるトンデケマン!」「ダッシュ!四駆郎」「YAWARA!」などがこの頃。

1988年頃から「ドラゴンボール」、89年の「ドラゴンボールZ」に続き、「アイドル天使ようこそようこ」「NG騎士ラムネ&40」「YAWARA!」「うる星やつら」(グロス)と同時に「きんぎょ注意報!」「まじかる タルるートくん」「美少女戦士セーラームーン」「スラムダンク」「GS美神」「ご近所物語」「ママレード・ボーイ」「地獄先生ぬ〜べ〜」「花より男子」などが96年頃。

色々なお店や街を歩いていたり、車で走っている時も「これ何かに使えないかなぁー」と常に考えていました。アクリルや模様ガラス・木材など、組み合わせることで面白い透過光ができたりするんです。ある日、前社長が「コレ使えない?」と電飾看板を持ってきたときはちょっと困りましたけど(笑)。

そして1997年からデジタルアニメに移行していきます。フィルム機材も高かったですが(線画台500万円・カメラ250万円など)、パソコン、特にソフトが高かった。撮影ソフトが100万円近くするのに人数分必要なので、ハンパない費用が掛かりましたね。何とかスタジオ2階をデジタルルームとして使い始めることができました。1階をフィルム班・2階をデジタル班としてしばらくやってました。

はじめの頃、毎日、東映アニメーションさんへ研修に行き、会社に帰ってスタッフに教えるということが1ヶ月くらい続きました。作品は「夢のクレヨン王国」「Dr.スランプ」「キューティーハニーF」などから始まり「おジャ魔女どれみ」「デジモンアドベンチャー」。今も放送中の「ワンピース」もこの頃からです。

グロスなどで「バーバパパ」「地球防衛企業ダイ・ガード」「こちら葛飾区亀有公園前派出所」「ビックリマン2000」など。その後も「デジモン」や「おジャ魔女どれみ」などはシリーズが続き、「キン肉マンⅡ世」「聖闘士聖矢」「金色のガッシュベル!!」「ののちゃん」「明日のナージャ」「冒険王ビィト」「ゼノサーガ」「インタールード」。「ワンピース」「デジモン」「どれみ」などの劇場用作品も並行して撮影。カンヌ映画祭にも出品した「インターステラ5555」もこの頃です。

レコーディング台と30代の頃の私

2001年に、大泉学園町から現在の西大泉の3階建ビルへ、3度目の移転をしました。
「おジャ魔女どれみシリーズ」「デジモンシリーズ」「明日のナージャ」、そして「ワンピース」に続く長寿番組となった「プリキュア」シリーズもこの辺りから始まりました。

撮影は「閉鎖的な空間」です。
フィルム時代は暗いスタジオ内での仕事。外部の人との接触は制作会社の進行さんだけ。原版(放送用に編集すること)の最終で忙しい時などは演出さんが来ることもありました。
デジタルに移行した初期はカットを持って進行さんは来ていましたし、撮影監督は初号(TV局納品前の最終チェック)や打ち合わせで顔を合わせますが、最近は全てネットでの受け渡しのみで、顔を知らない進行さんと電話だけということもあります(会社を出ることのないスタッフは、電話だけがコミュニケーションツールとなっています)。
スタジオ内は明るくなりましたが閉鎖感は増えたような気がします。デジタルな世界もアナログの人間が動かしているのです。コミュニケーションは大事ですね。

撮影スタッフにとって大切なのは、作品をいっぱい見ること。アニメ・実写問わずです。
感性が大事なんです。ただ絵を合成するだけではなく、演出の意図を画面に出さなくちゃならない。透過光などソフトを使った特殊効果はもちろんですが、PAN(画面移動)などのカメラワークには、気持ち良い部分が必ずあります。とにかくテレビや映画をたくさん観て下さい。

廣川二三男(三晃プロダクション)

☆次回は、遊佐かずしげさん(メビウス・トーン)です。